本編 幕の二 | 読者参加型ブログ 傾奇者

本編 幕の二

少しばかり靄が掛かっている。
見慣れた風景もこんな感じだとまた一風変わって見える。

人通りの少ないところを一人歩くのも悪くない。
お堀端の柳の葉が周りに白い衣を纏ったように輪郭を描いている。
そういやこの辺の柳は年中青々としているのは何でだろう?

冬場に掛けても葉の色を落とすことなく頭を垂れてる
こいつには不思議がたくさんあるらしい。

微かに匂う青臭さを湿気った空気といっしょに吸い込む。

ちょいと通りの飲み屋ののれんが揺れて
中には手持ち無沙汰にか、それともここぞとばかりか
どんちゃん宴で賑わっている。

こんな日は職人連中は仕事にならない。
となれば、飲んで寝るだけだろう。

しばらく歩くと目当ての看板が見えてくる。

鳴り物の字に矢の絵。

光陵先生の達筆な一筆で書かれたこの看板も
雨に濡れて揺れている。

あと四.五歩ってとこでがらっと開いた。

見慣れた小童が軒先に顔を出してきょろきょろしている。

こちらに気づくと

「あ、京の字。」

一丁前に髪を一縛りにした小童は駆け寄ってきた。

「本当にきやがった。」

生意気な口を聞きながら着物の裾を掴むと
早く入れと言わんばかりに引っ張りやがる。

「ガキ。ひっぱるな。」

「うるさい。早く入りやがれ。」

むすっとした顔をされる言われはないので

「おい、なにむくれてやがる。」

と、頭を小突いた。

小次郎は生意気にガンくれてこっちを見上げる。

「おじいが京さんが来るから戸を開けろって。」

「御大も相変わらず察しがいいな。」

沙耶がこの雨の中来るはずもなし。
されど約束の刻を破るような人でもなし。
御大はそれを承知している。

「おいらはこんな雨の中くるもんかって言ったんだ。」

「まぁそうだわな。」

確かにこのこまっちゃくれた小童の言うとおり。
しかしながら沙耶に理屈は通る筈もなきこと。

「でも、きやがった。阿呆でもなければこの雨の中来るもんか。」

もう一発引っ叩きたいところだが、空いた戸の隙から
御大の顔が見え隠れしている。

「俺の来ることの何が気にいらねぇんだ。」

じっとこちらを睨みながらも。

「ふん。別に。」

と、苦虫を噛んだような顔をしてやがる。

機嫌直る暇もなく中に進められると
いつもと変わらぬ場所に陣取って白髪を小童同様に束ねた御大は
ハイカラな眼鏡ごしにこちらを向く

「おぉ。京さん。この雨の中ごくろうじゃな。」

囲炉裏の鉄瓶を取り、急須に湯を注ぎながら笑みをこぼして
ここに直れと手で合図してきた。

「御大。小次郎の奴はなんでこういつもむくれてやがる。」

高笑いしながらこちらに茶を手渡すと

「いや。沙耶さんが来るのを心待ちにしておったのかものぉ。」

なるほど小次郎は沙耶にだけは子猫のように懐いている。
沙耶もまんざらでもないらしく実の弟のように愛でているが。
的を得た光陵御大の一言で小次郎は顔を赤らめながら奥に
引っ込んでしまった。ばんっと手荒に襖を閉めていった。

「ったく、あの小童ときたら。」

「まぁまぁそう言わんで。どうじゃ一杯やってくか?」

「お言葉に甘えさせていただきます。」

御大とも長い付き合いになる。
沙耶がまだ店で客を取っていた頃
御大は鳴り物の一切の稽古をつけていて
沙耶も御大を師匠と慕い今もこうして繋がっている。

「沙耶もこの雨じゃ外に出たがらなかったか。」

「察しの通りで。」

沙耶の話をする御大も自分の娘の話をするように
上機嫌で舌がまわるようだ。

「居候も大変じゃの。」

「まったく。沙耶の奴ときたら。こっちの使い方は心得てる。」

「そういう京さんも人がいい。」

そういいながら話しながら燗していた酒を勧めてきた。

「そうじゃ。京さん。近頃この辺で噂になってる話聞きたいかい?」

粋な模様をあしらったお猪口を手渡すと甘露の如く堪らぬ芳香を
放つ一献を注いでくれる。すかさず手付けの一杯をくいっとする。

「先生。先生が話したいんじゃないですか?」

頭に手をやりながら

「そうとも言うな。」

と、此方の注いだ一献をうまそうに嗜んだ。

「ここ数日。夜になると表の通りがやけに騒がしくてな。
 町方やら岡引が駆けずり回っておるわい。」

「へぇ。色街の方じゃ大して聞こえないけどなぁ。
 何だい、大捕り物でもあるのかい?」

酒を飲む御大の手が止まった。

「大捕り物も大捕り物じゃの。人でないがな。」

人でない。御大もおかしなことを言い放った。

「それじゃ何かい?がまかい?化け猫かい?」

御大は眉一つ動じずこちらをまじまじと見つめて。

「鬼じゃ。」

御大の言い様に世迷言ではないものを感じはしたが
鬼なんてものは見たことがない。
確かに草紙や書の中では何度となく現れてはいるものの
ここでいう鬼って言うのは絵空事でしかないわけだ。

「鬼が出るって?ずいぶん飛んだ話だ。」

三日ほど前にお堀端の生垣で半裸の女の死体が上がったそうで
片足、片腕は食い千切られたようになくなっていたそうだ。
野良が仏を食い荒らしたというなら合点がいくが
女の腹には幾つかの大きな歯型が残っていたという。
獣の歯形にしては恐ろしく大きな歯型で大きな穴が二つずつ
腹と背中に残っていたらしい。

御大が聞いた話だと、そんな死体が上がるのは初めてじゃないらしい。

ここふた月の間に十に近い数の殺しが界隈であったようだ。
しかもどれをとっても女がやられているそうだ。

色街でも噂にはなっているのかもしれんが
世捨ての暮らしをしている俺には初耳だった。

「で、鬼を見た奴はいるのかい。」

「何でも隣町の反物屋の奉公人が見たらしくてな、
 その日から口も聞けんようになってしまったそうじゃ。」

年のころ15.6の奉公人はそれを見た夜から一言もしゃべれないように
なってしまったそうだ。確かにそんなものを見ちまったら
誰がそうなってもおかしい話ではない。

ところが自分が受けたことのない痛みは
人の心にはなかなか届くものではない。

「そりゃ気の毒だな。」

そう言い放った此方を尚もじっと見据えて

「京さんも気をつけなされよ。」

御大の眼力にたじろぎながらもあまり自分に置き換えて
考えられるものでもない。

「何、俺なんか食ってもうまかねぇ。鬼もそうそうゲテモノ食い
 じゃねぇだろう。それに女ばかり喰らうのだろ?」

御大は此方の言葉を飲み込んだが

「まぁ。そうなんじゃが。なんと言うか、嫌な予感がしての。」

この一言は後にそのまま鬼を呼び寄せた。

御大の話を肴に一杯やるのはなかなか捨てがたいものだが
いつまでも油を売っているわけにもいかず。

「御大。すまないがそろそろ戻たねぇと沙耶がうるさい。」

口惜しいのは御大も同じ。女だらけの商売だ。
心許す男の酒の相手もなかなかいないとみてよくしてくれる。

「そうじゃの。直しは万全じゃ。沙耶によろしくな。」

「うまい一献かたじけない。じゃぁまたな。」

御大の笑顔と奥の襖から不満そうながら手を振る小次郎を
尻目に先を急ぐことにした。

すっかり日も落ちてきた。
これから色街は誘いの看板が灯りだす。
雨もだいぶ落ち着いて人の通りも疎らに目立ってきた。

顔見知りの連中に声を掛けられるが
御大のところで油を売ったので懇情の別れを告げながら
連中の誘いを断り歩く。

色街の入り口辺りが見えてくると
普段より人影が目に付く

そこには女子供までもが群がって何やら
騒々しい声が聞こえてきた。

野次馬根性は人一倍、どうにも気になるが急いで戻らなきゃ
座敷に迷惑もかかる。騒々しい人だかりをすり抜けて
無界屋の店先にたどり着くと沙耶が仁王立ちして待っていた。
これは雷も落ちるだろうと多少身怖しながら近寄ると
沙耶がすかさず駆け寄ってきた。

「す、すまねぇ。御大が、、、。」

此方の言葉もろくに聞かず大泣きしながら抱きついてきた。

「よかったよ。あんたじゃなくて。無理して頼んで後悔してた。」

訳がわからないが、周りの連中も胸を撫で下ろしている。

「おいおい。何があったんだよ。それに何だいあの人だかりは。」

袖で鼻水も涙も一緒くたに拭うと沙耶は嗚咽まじりに

「殺しだよ。華奢な浪人姿の男のどざ衛門があがったのさ。」

どうやら通りすがりの櫛屋が見つけたらしい。
色街と隣町を繋ぐ橋のたもとにぷかぷか浮いていたのを見て
着物か何かが浮き草に引っかかっているかと思ったようだ。
ところがなにやら胸騒ぎがしたのか近寄って見てみると
船を止めて置く止め木の中ほどでしっかりとつかんだ青白い腕が
見えたそうだ。よく見ると首から上がなく右肩から脇にかけて
ちぎられたようになっていたという。

つい先程、御大から聞いたばかりの世迷言が目の前で起こった。

俺は沙耶に頼まれた三味線を渡して
人だかりに駆け寄っていった。